骨院を開院している”ほねつぎ師”は正式には”柔道整復師”といい、厚生労働大臣が認可する医療従事者としての国家資格者です。

その柔道整復師の起源は古く、南北朝時代(1335~1392年)に遡り、金創医(戦場医)による整骨治療が原点といわれています。

その後、応仁の乱(1467年)以降 金創外科が興隆し、戦国時代には金創医に主要流派誕生(鷹取流、神保流、吉益流)しました。

  16世紀には西洋医学の外科絵巻として楢林鎮山が『紅夷外科宗伝』を残しました。

17世紀には西玄甫、伊良子道牛によって『金創跌撲療治之書』が書かれ、元和5年(1619年)には長崎に来日した陳元贇によって中国拳法が伝来。同時に救急法、死活法も伝来されました。この中国拳法は三浦義辰によって柔術に発展し、柔術救命法として体系化され、武医同術となりました。

後に吉原元棟によって整骨術に発展しました。

18世紀になると様々な書物が世にでることになりました。

日本初の整骨術専門書として高志鳳翼が『骨継療治重宝記』(延亨3年(1746年))を、執筆者不明ながら1770年には整骨秘伝書として『家法難波骨継秘伝』が。そして吉原元棟によって『杏蔭斎正骨要訣』が吉雄流整骨術書として残っています。ほぼ同時期に1774年に杉田玄白が『解体新書』を残しています。

また木の骨格標本を星野良悦が”木骨”(寛政3年(1791年))を作成しています。

 19世紀には二宮彦可が解剖学に基づく整骨術を確立し、文化5年(1808年)に『整骨範』を残し、二宮督が『整骨原』を執筆しています。また文化7年(1810年)には加古良玄が『折肱要訣』を、文政12年(1829年)には各務文献『整骨新書』と様々な文献が残っています。

明治時代になると法律による社会環境が変わってきました。

明治6年(1873年)には太政官令により整骨医として認可され、明治7年(1874年)には医制制定されました。これによって整骨医は3年毎に試験を受けることによって免状を受けました。

明治9年(1876年)には内務省達により医師開業試験実施され、整骨科は外科に含まれることになり、明治12年(1879年) ”医師試験規則”施行されました。

明治17年(1884年)には”整骨科医術開業免状”が下附され、該当しない者には”従前接骨業”の鑑札が下附されました。明治18年(1885年)10月に”入歯歯抜口中療治接骨等営業取締法”が施行され、整骨科は普通医師免許となりました。これによって既存の開業者は継続可能となったが、それ以外の者は整骨術禁止となり実質上の「整骨術禁止令」となりました。その禁止対象者は明治44年(1911年)8月14日に施行された”按摩術営業取締規則” の対象となりました。

 

 時代が変わり、大正元年(1912年)には接骨術復興を目標に萩原七郎氏らの運動が始まり、大正2年(1913年)には”柔道接骨術公認期成会”を発足されました。

そしてついに大正9年(1920年)4月21日に内務省により柔道整復術が公認され、柔道有段者に接骨業務を柔道整復師として公認されました。同年10月には警視庁にて第1回公認試験を実施されています。

 年号が昭和になると、昭和11年(1936年)1月22日には内務省が柔道整復師の健康保険取扱いを認可しました。昭和21年(1946年)12月29日には厚生省令第47号として「柔道整復術営業取締規則」発令されています。

 1951年(昭和26年)年には、文部省・厚生省(現厚生労働省)共同省令によって柔道整復師の養成に関わる「学校教育にもとづく免許制度」が施行され、本格的な養成教育による資格制度が整備されることとなりました。

昭和45年(1970年)4月14日には「柔道整復師法」交付され同年7月10日施行され、現在の柔道整復師として独立法が制定されました。

 時は移り1990年(平成2年)年には、柔道整復師資格試験とその免許証は、都道府県知事から厚生労働大臣へ移行され、1993年(平成5年)に第1回柔道整復師国家試験が実施され、本格的に国家資格者としての柔道整復師がスタートしています。

そして平成13年には世界保健機構(WHO)に日本の伝統医療として柔道整復が取り上げられました。

柔道整復師はこのような歴史を踏まえ、伝統的な医術と近代の医学知識を融合した国家資格者として、現在の日本の医療の一端を担っています。